★信仰宗教と私の過去★母の生前に絶対に聞きたかった事★救われたいなら…★
今、夢中になっていることがある。
それは「仏教」について。
考えてみたら、2人の息子はお寺さんの幼稚園で、毎朝「ぎゃーてーぎゃーてー」と唱えていたし、お釈迦さまの誕生日である4月8日は、それをお祝いをする行事もあった。
現役住職である園長先生の法話を聞くチャンスもあったが、私は全く無関心だった。
思い起こせば、2011年に亡くなった母は、色々な宗教を信仰していた。
月に何度かの集会に、私はいつも誘われたが、ずっと断っていた。
そんなある日の夕方、学校でも人気者の栄子ちゃんが、風呂もない、小汚い小さな私の住むアパートのドアを突然ノックした。
知らない子を2人連れていたが、狭い廊下では3人並ぶことができず、栄子ちゃんの後ろから顔をのぞかせていた。
私と栄子ちゃんは4,5年生だっただろうか?
その子たちは私達より、少し年下に見えた。
1学年4クラスあった小学校では、栄子ちゃんとは同じクラスになったことはなく、話したこともなかった。
もとより、私は友達がいなかった。
いや決していなかったわけではない。
同じアパートの忍ちゃんは友達だった。
けれど、他に長く続く友達や、親友とか特別な友達と呼べる子はいなかった。
話を戻すと、結局のところ栄子ちゃんは、創価学会の集まりに一緒に行こう!ということだった。
私の後ろで母が様子を伺っているのがわかる。
何度も断ったが、「一度来てみて嫌ならやめればいいし、一回行ってみようよ」と、さすが人気者らしい、明るい表情で言われると、私は「そうだよね」と、靴を履いた。
その集まりは、近所の同級生の男の子の家の、和室で行われた。
大人が30人くらいいる。その子供たちもいる。
母もその中に、いる。
母が人と話しているのを見た事がほとんどなかったから、母の様子をずっと見ていた。
栄子ちゃんはその集まりに入ると「お役目ごめん」とばかりに、他の友達のところへ行き、私はひとりぼっちになった。
大勢が集まっているところは、苦手だった。
畳に座り、みんながガヤガヤと話している様を、私はキョロキョロと観察していた。
そしてしばらくすると、障子が開き、誰かが入ってきた。
と途端にシーンと静まり返り、みんなの視線はその人へ集められた。
そして、南無妙法蓮華経を唱え出す。
みんな合掌し、目を瞑っていた。
こ、怖い。。。
みんなが一斉に同じことをする。
怖すぎる。
その後のことはほとんど覚えていないが、何人かが順に前に出て、何かを話していたように思う。
もう、二度と行かない。
自分に誓った。
それから1年くらい経った頃だったか?
同じアパートの忍ちゃん家が大変なことになった。
大工のお父さんが、高い所から落ち失明したのだ。
忍ちゃんのお母さんが私に話してくれた。
「朝、(忍ちゃんの)妹がご本尊様のお題目を、誤って破いちゃったのよ。何かないといいと思っていたんだけどね」と。
それから、忍ちゃんは引っ越してしまった。
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私の兄は3人いる。
その兄とは父親が違うし、私とは年も離れている。
ほとんど一緒に暮らしたことはなく、あまりいい思い出はない。
一番上の兄とは、私が15才の頃会ったのが最後だった。
その後時々、どこかの市から生活支援依頼の依頼書が来ていたから、生きているんだなとは思っていた。
30代半ば、私が初めての育児で守りたいものが増えた時、その依頼書へあるメッセージを添えて返信をした。
それ以来、生活を支援してほしいなどの依頼は来なくなった。
三番目の兄へは、たくさんのお金を貸した。
貧乏だったのと親から独立したかったため、大学進学を諦め、18で一人暮らしをしている時から、母を介し何百万と貸した。それはもちろん返ってこなかった。
直接貸してほしいとも、そしてありがとうとも言われなかった。
そんな兄は中学の頃から不登校だった。
私はある夜、父(未入籍の父)と母と、警察や児童相談所の大人たちと、あるアパートへ行ったことを思い出す。
大家さんが鍵を開け、警察官がドアを開けると、兄は女の人と一緒だった。
15歳の兄の驚く顔と罵声を、今でも思い出す。
兄はそれから施設へと送られ、次に会った時は妊娠中の彼女を連れて、結婚の報告をしに家に来た時だった。
それでも二番目の兄は少しまともだったように思う。
三番目の兄と一緒に暮らしている時もあったが、シンナーに溺れ、目はうつろで手は震え、歯はボロボロだった。
でもいつも「おー、早苗元気かぁ?」と明るく笑いかけてくれた。
兄は高校は行けず、母が時々食べ物やお金を届けては、どこかで暮らしていたようだった。
その後しっかり者の女性と結婚した。
私は18歳頃だったろうか?
女の子が2人生まれ、家に泊まりに来た時に、一緒に銭湯に行った。
着替えていると、その子たちの首に何かがかかっているのが見えた。
お義姉さんに聞くと、お風呂以外ずっと肌身離さずにしているらしい。
どうやら信仰している宗教のみんなは、お守りとして身に付けているらしい。
それは兄だけでなく、気づかなかったが、母も身に付けていた。
これを外したまま、うっかり買い物に出かけたら、事故に遭いそうになったとか、そんな話で夕食時は盛り上がっていた。
兄や母は、その新興宗教に私を誘う事はなかったが、母はよく兄家族と集会へ出かけているようだった。
70歳頃、母は膝の軟骨がすり減って、ほとんど歩けなくなった。
「痛いから、集会所へ連れていってほしい」と、言われたこともある。
母はその後、肺から十二指腸に癌が転移した。
その時に私は思い切って聞いたことがある。
「ねぇ、お母さん、幸せだった?」
母は「考えた事もないわ」と笑った。
私はずっと、幸せになることを考えて生きてきたから、その価値観に驚いた。
母にとって、宗教とはなんだったのだろうか?
友達のいなかった母が、人と繋がるためのツールだったのかもしれない。
痛みを和らげてくれる場所なのかもしれない。
4人の子供がいながら、二番目の子供だけは、何とか宗教で繋がっていられたと思うと、なくてはならないものだったのかもしれない。
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ずっと興味がなかった、いや避けてきた宗教。
社会的に新興宗教が問題になったが、「仏教」はなぜ2000年以上も廃れずに、伝わっているのか?
その意味を知りたくなったのだ。
そして何世紀もずっと人の煩悩は尽きない。
「救われたい、救われたいと言いながら、何も手放すことはできない人間」は、
仏教でいう「三毒」に侵されているからなのかもしれない。
お釈迦様が悟りを開かれたのは、35才の時。
栄子ちゃんに連れていかれたあの集会から、35年。
そして今日の外気温も、35度。
お後がよろしいようで(*´з`)
お読みいただきありがとうございました★